【出前授業】クリスマスは福島・新地高校で

今年5校目、福島3回目の出前授業は相馬と伊達の藩境(?)、新地の県立新地高校。

新地の先生方に初めてお目にかかったのは、2月に相馬高校に伺った折、夕方の親睦会でのことでした。はじめは相馬高校に伺ったのに、わざわざ新地の先生がいらしたのはこれまたなぜ?と思いました。ところが福島の先生方のお話を聴くほどわかってきました!勤務校ごとに別の村、という感覚ではないようです。1782414_760524237374978_2970744453326721165_o
「○●さんは××高校は今年までのはずだけど、来年はどこへ?」
「ああ、あそこは★さんがいるな」
「△さんはあそこではちょっと苦労するだろうがそれも勉強だ」
など個々の先生の動向を驚くほどよく把握しているのです。遠慮も割引もない話しぶりは高校生の部活のよう。個人を把握しているという点では首都圏のミッション私学に通じるけれど、異動の有無が大違い。福島全体でひとつの大きな高校のよう。これは面白い!

というわけで声をかけていただくたびに二つ返事の福島出没。今回は灘中高、聖光学院(神奈川!)でバリバリご活躍の先生がたとご一緒です。

私の出し物は新地高校の1年、2年の生徒さん3クラスに英語のフォニックス、ラテン語語源カードゲーム、通訳養成トレーニングなどなど。ちょっとすねたような女子も、元気いっぱいの1年男子も、どんな姿でも愛らしい。みんなちゃんとデカいエンジン積んでいる。理由なんていいから、ここで、いっぺんギアを上げてアクセル踏んでみてごらん!

帰路、今回はこれまでと違う気分に包まれていました。いくつかの確信と問いのせいでしょうか。飛行機のエンジン音が後ろから聞こえるような…

  1. 言葉を話し(歌い、語り)、耳をすませることは人間が身一つでできること。余計なものはいらない。
  2. 物心ついてから外国語を習得するのに必要なのは…
    • 型を体得している指導者をまねること
    • 話している自分をイメージすること
    • そのイメージの実現を熱願すること
  3. そのために必要なものごとは地方に十分ある。都会は余計なものであふれていて必要なものを見失いやすい。(教育こそ脱中央化が自然)
  4. すぐれた人が集う場を目指すなら、東京である必要はない。じかにボストンでもパリでも北京でも目指したらよい。

自由学園で教えていた頃、朝から晩まで毎日一緒に過ごし、少しずつ積み重ねることで確実な力を育むのが楽しく、得意でした。これは幼児でも高校生でもなく、意志力のある中学生にこそ有効です。福島の中学校の英語、手ほどきはどうなっているんだろう…遠くからサポートするにはどうしたらいいだろう…

そんなふうに焦れているのは、やはり4を目論んでいるからです。4を実現する階段、仕上げの3、4段目は見えています。さて、どう1,2段目を固めましょうか…来年のお楽しみ。

ふだんはこんなことをしています

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インフルエンサーがインフルエンザ?

今年もその時期がやってまいりいました。
各地でインフルエンザが大流行、学校はお休み、鶏は処分、大変な「影響」が出ています。

おやおや?社会に大きな影響力を持つひとをインフルエンサーと言うようですが、インフルエンザとそっくりですね。まさかウィルスばらまいている…?いえいえ、インフルエンサーとインフルエンザ、語源がまったく一緒です。

東方の三賢人、星に導かれベツレヘムへ/画・ジオットー

東方の三賢人、星に導かれベツレヘムへ/画・ジオットー

昔々のイタリアでひどい風邪が流行りました。当時、伝染病がウィルス(virus ヴァイラス)によるものとは考えられず、「星のめぐりの影響」と恐れられました。星の力がin「中に」flu「流れこんだ」enza「もの」として身体にいろいろな症状を引き起こすと思われたのです。これをあながち迷信と切って捨てるのはせっかちです。天体のリズム、位置関係が地上の生物に影響することは、農林業関係では知られたことですからね。昔の人は宇宙のリズムを私たちよりこまやかに感じ取っていたのかもしれません。

イタリアでの発音はインフルエン「ザ」ではなくインフルエン「ツァ」でした。でもイギリスでは面倒くさくてflu「フル―」しか言いませんから、語末の発音は出番がありません。しかしまあ、ここまで省略するとインフルエンサーもインフルエンザも本当にいっしょくた、ただのfluになってしまいます。日本では病気の方を「インフル」と四文字で言うこともあるようですが。

人間のインフルエンサーって何なんでしょうね。メンタル・ウィルスを広めるのは感じが悪いなあ。すでに人々の心の中にある何かを思い起こさせ、響きあっているならちょっと素敵ですが。

さて日本語では「インフルエンザの予防接種」と12文字を費やすフレーズも、英語なら拍子抜けするほど簡単です。「flu shot」.

I had a flu shot last Thursday and it’s still swollen.
こないだの木曜インフルの注射したんだけど、まだ腫れてる。

あれ、痛いんでしょうか、かゆみもあるんでしょうか。
文明的流行病にはまるで縁がなく、しもやけ揉みつつ思いめぐらしております。

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INPPサリー先生、ラジオで語る「ストーリーのすすめ」

深いことをわかりやすく語るINPPサリー先生

深いことをわかりやすく語るINPPサリー先生

原始・姿勢反射研究の情報源として知られる研究所、INPP。けれど反射ばかりを話題にしているわけではありません。子どもが心身ともにのびのび育てる環境づくり全体を視野に入れています。

最近もINPP所長のサリー先生がラジオインタビューにご登場。フェアリーテイルについて語っています。ストーリーテリングも大事な環境の一部ですから。(それにしてもまあ、インタビュアーのおじさんの訛のすんごいこと。お楽しみください。)

教えこみではなく、ストーリーを!

音声ファイルが大きいのでここにアップロードすることができません。
こちらの【サリー、ラジオインタビューへのリンク】からお聴きください。

2分40秒ごろからこんなふうに言っています。
…some of the best teaching is done not through direct teaching but through the telling of stories, …of understanding through examples and the things that we can relate to what that new information is about. So it is often said that fairy stories fairy stories teach children to understand good and evil, moral  behavior socially acceptable behavior through the behavior of the characters in stories …that all  those strengths and weaknesses inherent in human nature are explored within many of those stories. …

ざっくりまとめますと…
直接教え込むより、ストーリーをきかせたほうがずっとうまくいくのは…
1)登場人物という例を通して自ら学ぶ
2)善悪、道徳、人間生まれもっての弱みや強みを奥行きをもって理解
するからなんですって。当然といえば当然ですが…

荒唐無稽、と思うのは頭でっかち。ココロは違う…

サリー先生、あちこちでポロッといいこと言ってます。

…子どもは大人が思うよりずっと深くストーリーの世界と出会う。恐れ、不安、夢、希望などを現実の発達段階では経験できないことをストーリーで冒険。

…おそろしい場面はその時ごとにムリなくつきあえばよい。無理ながまんしてどうするの?

…大人は「こんな昔っぽい話いまどきストーリーなんて…と思うけれど、それは大人頭が考えること。子どもはそんなふうに受け取らない。

いかがでしょ?次回INPPコラムは「サリー先生、就学年齢引き下げに怒る!!!」です。

「姿勢が悪い」「鉛筆の持ち方が悪い」…裁き言葉をやめたい先生のための講座はこちら

ママ応援、学習と発達の科学でお家ですでにしているイイこと、今からできること発見講座ももうすぐ!

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「クワイ河収容所」をもう一度

「人間には体と心しかない。精神(霊)などない。だからダメなんだ」と中世の教会が結論したことがありました。ひとに宿る精神を確信するひとびとは、教会に真っ向から反論し戦うのではなく、その思いを物語とし語り伝えました。それが今も語り、読み継がれる「パーシヴァル」だと言われています。

この国が質的に大きく変わった今日この日、私も「パーシヴァル」の語り手に倣うことにしました。アーネスト・ゴードン氏は第二次大戦の日本軍俘虜として泰緬鉄道の強制労働に従事させられました。その手記「クワイ河収容所」は日本を責めるのではなく、戦場でいかに生に絶望したか、そこからどうやって回復したか、自分と仲間の心を自分の言葉で伝えています。この本を、英語と、齋藤和明先生の日本語訳で読み、語る小さな集いを始めたいと思います。郡山のLa Vidaさんのaチェア、aテーブルを一緒に囲んでくださる方を求めます。

いま、初版はきわめて入手困難です。ただ、18年前に、母校での授業のためにICU図書館でコピーしたものが手元にありますから大丈夫です。これは手放してはならないとずっと思っていました。

1回2時間程度、同じところを読む回を2、3回もうけてから次に進もうと思います。まだ何も決めていませんが、まずは呼びかけておきたかったのです。詳細のちほどお知らせします。続けられる方法で続けます。

以下、「クワイ河収容所」よりご紹介。
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10306396_926800040679671_4059589342635760498_n その日、一日の仕事が終了した。ただちに工事用具の確認が行われた。確認がすみ宿舎へ帰る寸前というところで日本軍の俘虜監視兵が、シャベル1本が足りないと宣言した。その日本兵は、タイ人に売ろうとして誰かが盗んだのだと主張した。俘虜たちの列の前を彼は大股で歩きつつ、どなりちらしていた。俘虜たちが卑劣でおろかであること、さらに最も許しがたいことには天皇に対する忘恩の不敬を犯していること、それらをなじった。
さらに彼はブロウクン・イングリッシュの憤怒の声を張りあげて、盗んだ者は一歩前へ出て罰を受けろと命令した。だが誰一人動かなかった。監視兵の怒りは一段と強まった、すぐに暴力をふるうだろうと誰もが思った。「オール・ダイ!オール・ダイ(全員死ぬ)!」と、逆上した彼は、金切り声で叫んだ。
彼は自分が本気であるのを示すために、銃を取り安全装置をはずし、肩にあてて狙いをつけた。俘虜たちをひと通り眺めたうえで左端の者から射殺しようとした。
その時、そのアガーイル隊員が列の前に進み出たのだ。彼は直立不動の姿勢をとり、こう言った。穏やかな声だった。
「私がやりました」
監視兵はそれまで熱しつづけていた怒りを一気に爆発させた。彼はその気の毒な俘虜を蹴飛ばした。こぶしでなぐった。それでもアガーイル部隊の兵士は姿勢をくずさなかった。鮮血が顔に流れた。それでも彼はうめき声を出さなかった。その声ひとつたてない落ち着きが、監視兵の憤激をよけいに駆りたてた。監視兵はいったん手放した獣の重心を握って高く頭の上に振り上げた。そして一声わめき声をあげて、銃尻をアガーイル兵の頭蓋骨へ振り下ろした。彼の身体は、ぐにゃりと地に倒れて、それきり動かなかった。死んだのは歴然としていた。それなのに、完全に死んでしまっているのにであるが、その監視兵は、幾度も銃尻を振り下ろしてアガーイル部隊の兵士をなぐり続けた。ついに、やっと自分が疲れはてたとき、なぐる手をとめたのである。
労働班の仲間たちは戦友の遺体を持ち上げ、用具をかついで収容所に向かって行進した。
収容所の門衛のところでも、検査がある。用具はもう一度勘定された。ところがシャベルは、一本足りないはずなのが、全部そろっていたことがわかった。
この話がくり返し伝えらえた。そしてすばらしいことだと言ってよいと思うが、いつ語られても、アガーイル兵に対する俘虜たちの賞讃の念のほうが、日本軍の監視兵への憎悪を超えて強かった。」

(「クワイ河収容所」アーネスト・ゴードン著 齋藤和明訳 ちくま学芸文庫)

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電車の中でスマホにイヤフォン…耳の中は嵐です

先週の東京は雹に見舞われ、生まれて初めての雹の轟音に若い学生たちは驚いていました。人の声がかき消されて授業が続けられないほどの音。地下鉄のプラットフォームの両側に電車が同時に到着するよりすごい音だったのです。

でも…耳の中、毎日雹になっていませんか。

音は鼓膜に伝わる前に骨に伝わり、蝸牛、脳に届けられます。この骨ルートを骨(伝)導といいます。骨導は追って鼓膜から入ってくる音の先触れ、準備の呼びかけともいえましょう。骨導のリハーサルがあってこそ、余裕をもって鼓膜から音を受け取る本番に臨むことができるのです。
そのしくみは、こちらのビデオがわかりやすいです!

⇒トマティス博士が見出した素晴らしい耳のしくみ

さて、イヤフォンで音楽を聴き続けるということは…骨導のリハーサルなしに本番に臨むようなものです。すべての音が準備もなしに聴こえるようなもの。好きな歌ならば聴覚記憶を同時に再生しているかもしれません。それでもリハーサルなしは身体と耳には優しいことではありません。

それに…街の中で耳はどれほどノイズキャンセルに忙しいことか。

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プレーヤーにつながずに、イヤフォンだけをつけて街中を歩いてみてください。舗装された路面とかかとの衝撃音の大きさに驚かれることでしょう。この音をじゃまに感じずに居られるということは、ちゃんと遮断の働きがなされているということです。

私たちの身体は知らないうちに素晴らしい仕組みを活かして沢山の仕事をしています。みずからの自由でその身体をいためるようなことはなさいませんように。

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「あしあと」の神とピエタと

サイトそのものを大改築構想しつつ、工事がすすまずお粗末さまでございます。

今日もこれから通訳養成の授業に出かけます。授業のことは四六時中あたま、こころのなかで煮込んでいるのですが、ふと手を動かした拍子にそういうことか!と気づくことがあります。

訳の練習の前に、通訳のために大切なこと

自 然で上手な通訳のためには、訳の練習そのもの以前に、英語、日本語の豊かなインプットが必須です。百人一首や外郎売の口上、ミルトンの失楽園の出だしを 26行覚えるような…クラシックをカラダにしみわたらせ、10000%覚えた感覚が大切です。このとき、もう言語は勝手に口から出て来るけれど、あたまの なかはイメージが映し出されています。この境地に少しでも近づくために、ある程度ボリュームのある、心にひびく題材を自分で語れるようになることを大事に しています。いわゆる、やっとやっと思いだせるけれど大してイメージのわかない暗記とはちょっと次元が違うつもりです。

マーガレット・パワーズさんの人気の詩「あしあと」

さて、4月から授業で紹介しているのがこの詩。
20 年ほど前、「あしあと」という詠み人知らずの詩が人気を呼び、作者は誰かと噂になりました。自分だ、と名乗る人も複数現れる事態になりまし た。そんななか、マーガレットさんが「私が書いたものです」とカミングアウト、詩作の背景をしるした著書とともに来日なさいました。私はお茶の水での集い に参加していました。

Footprints by Mary Fishback Powers

One night I dreamed a dream.

As I was walking along the beach with my Lord.

Across the dark sky flashed scenes from my life.

For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,

One belonging to me and one to my Lord.

 

After the last scene of my life flashed before me,

I looked back at the footprints in the sand.

I noticed that at many times along the path of my life,

especially at the very lowest and saddest times,

there was only one set of footprints.

 

This really troubled me, so I asked the Lord about it.

“Lord, you said once I decided to follow you,

You’d walk with me all the way.

But I noticed that during the saddest and most troublesome times of my life,

there was only one set of footprints.

I don’t understand why, when I needed You the most, You would leave me.”

 

He whispered, “My precious child, I love you and will never leave you

Never, ever, during your trials and testings.

When you saw only one set of footprints,

It was then that I carried you.”

 

前 回、ひとりの学生がcarried youとはどういう身振りか不思議に思う、と言いました。私もはっとしました。ここで「そうねえ、人を運ぶんだからだいたい背負っていたのではないかし ら」と憶測を答えのように聴かせるのはとんでもない大きなお世話です。carried you on my backなんて書いてありません。書いてないことを作ってはいけない。

ところが、日本でポピュラーな訳を調べてみると「背負っていた」が多いのですね。

ふー ん、と思いながらGWを挟んで私は絵を描いていました。私も詩を1000%覚えること、イメージを描く手立てとして学生と一緒に絵を描く宿題をしていま す。この描画法はシュラフーアといって、輪郭を描かず、斜めの線を重ねることで姿が立ち現われるままにするのです。私はフランス人の画家、ダニエル・モ ローさんの通訳をつとめながら、門前の小僧よろしくずいぶん教えて頂きました。

なんとなく手を動かしながら、carrying最後のところ、どうしてもこんなふうに描けてきてしまいました。
あ、ピエタだ。
そう思いました。

ミケランジェロは4つのピエタを残しています。その順が、憐れむ者と憐れみを受ける者の関係がdependence からinterdependenceに変容していくと言われています。マリア、ヨセフのイエスを抱く、支えるしぐさのすべてはcarryに含まれるのです。

マーガレットさんがcarried you on my backと書かなかったとき、carried youで止めたとき、ピエタのイメージがあったかどうかはお尋ねしなければわかりません。

ただ、私にはon my backを書き忘れたんじゃないの、みたいなつもりで「背負う」と訳すことはできません。背負う、と訳すとしてもひっかかりを呑み込んだうえで、となるでしょう。
背負う、が間違いだというわけではありません。ここはひとりひとりに開かれている、と言いたいのです。ひとりひとりの苦難と、大いなる存在者とのかかわりが、それぞれのしぐさになることでしょう。

だから、翻訳を辞書にはいつくばったままやってはだめなのです。
ひとりひとりの胸のうちを通したからこそ、ひとつに決めにくいこともあるのです・
それでもえいっと言葉に結晶しなくてはならないこともあるのです。
こういう思いを重ねると、イギリスのビールがますます美味しく感じられるようになるものです。
ただし、3年生以上。

4つのピエタをご参考までに。(お借りした写真ばかりですみません)

第一ピエタ

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第二ピエタ

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第3ピエタ

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第4ピエタ

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勉強はじっと座ってするもの?ー英語はウロウロ大歓迎!

授業中静かに座って居られないと、すぐに「あの子、変じゃない?」「先生、指導力大丈夫?」という声が上がるようになりました。でも、そんなにじっとしていないと学べないものでしょうか?

 

優位感覚ってなに?

新しい情報や経験はいきなりアタマの中に入りません。まずカラダに備わったさまざまな感覚という窓を通り抜けるのです。よく知られた5つの感覚のなかでも、学びに大きく関わるのが視覚・聴覚・体感覚(触覚と運動感覚)と言われます。(授業中早弁をすると嗅覚と味覚が忙しいでしょうね!)

お気に入りの感覚はどれ?

お気に入りの感覚はどれ?

これら3つの感覚を私たちは三角シーソーのように刻々と切り替えながら使っています。ただ、3つを均等に使うのではないようです。たいていの人は、お気に入りの長居しがちな感覚がひとつ、ときにはふたつあるものです。その感覚から新しい情報が入りやすいからなのですね。これを学習優位感覚と呼びます。目で見るとよく覚えられるなら視覚優位、耳で聴くとよくわかるなら聴覚優位、というわけです。

この仕組みを利用して人の気持ちを動かそう、という動きもありますが、私は違和感を覚えます。自分らしい感覚バランスが育つまでの仕組みを(運動と感覚の発達。原始反射をベンチマークに)学ぶと、芸術的な精密機械のような人体のしくみに驚くばかりです。このように人間を成り立たせた力に畏敬の念を抱きます。

この素晴らしい仕組みを活かすのに教室以上にふさわしい場があるでしょうか。鍵を握るのは先生です。

 

さて、このごろの教室で損をしやすいタイプは…?

学校の先生には視覚優位、聴覚優位の方が多いと言われます。たしかに字がきれい、声がいい方が多いですね。でも、ひとはついつい自分の方法をひとにも求めがち。体感覚優位、つまり動いたり触ったりするとよく学べる子どもたちが本領発揮できる活動をふくむ授業になるよう工夫したいものです。

 

英語はウロウロして学ぶ!

私たちは心拍と呼吸のリズムに乗せて言葉をかたります。そんなこと意識しないほど、日本語ならば自然にやってのけていることでしょう。ところが、外国語となるとそうはいきません。英語は外国語だからこそ、身体にそなわるリズムを強調して学ぶとよいのです。一番有効なのは歩くこと。教科書を読むにも、覚えた詩を唱えるにも、歩いてみてください。自然にリズムがついてくるでしょう?

 

いま、ネットの時代に学校で学ぶ意味

たとえリズムがよくなっても、ひとりでウロウロ、ぶつぶつはさみしいもの。でも、仲間がいれば、和になってメイポールダンスのような美しい形を描いて楽しむこともできます。これはネットではできないでしょう?だから仲間と学べる学校は素晴らしいんです。みんなが黒板に向かって机を並べ、心拍も呼吸もきわめて安静…なんてもったいない!

ことばはカラダで学ぶと楽しい!

ことばはカラダで学ぶと楽しい!

さて、このリズムが頓珍漢のあてずっぽうではかえって気持ち悪いもの。リズムも自然で言いやすく聴きやすい英語にするには、実は文法の知識がとても役に立つのです。このあたりは次回のおたのしみ。

一見、私の授業は楽しく遊んでいる…英会話学校みたい…と思われますが、根底にある理由は全く違います。学びの科学と、からだの音楽、文法の数学をキーワードに、現場でがんばる先生を応援しています。

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通訳者ですが、英語で自己表現にあまり興味ないんです。

「グローバルな場面で英語で自己表現」birds
おお、威勢がいいねえ!

確かに、私もまさにそれが仕事になっているけれど
そうしたい、と望んだことは一度もなかったし、
目標にしたこともありません。

そもそも、私が外国語に引き寄せられるときは、
私のことを分かってほしいから、ではない気がします。

外国語の美しい響きに魅入られるとき。
新しいパターンに惹かれる時。
あなたのことをあなたの言葉でわかってみたい。
あなたのことばで話したいと願うとき。
(道楽と言えば道楽。)

ああステキ、と思うから、先生が宿題で出す量を
超えるインプットしていたかもしれません。
自分で考えこねくりまわして英作文したことも
あまりないように思います。(今も避けている?)

中学の英語の教科書で、タイ人と日本人の少年少女が
英語でメール、なんていう題材を見かけると
たまらなく違和感を覚えます。

イギリスでイラン出身のふたりの友人と英語で話していたときのこと
ふたりが一瞬アラビア語で話すと、呼吸も、眼光も、立ち姿も、
声の響きも…別人のように輝いたのです。
あの瞬間はいつまでも覚えています。

英語コモディティ人間量産に多くのエネルギーが
注がれているように思われてなりません。

さて、挿絵はアッシジのフランシスコの「小鳥への説教」を
お借りしました。なしてだべ。

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「できません…」って100回試してみましたか?

もう10年以上前、私はドヴォルザークの「ロマンス11番」という
ヴァイオリン曲に、一度で心奪われたことがあります。
(アイザック・スターンの演奏URL後述)
幸福感にあふれるメロディーはどこかなつかしい
中欧の風景が立ち現われるよう。

これを弾いてみたい。
この曲が奏でられたらどんなに嬉しいことか!

ところが楽譜はオタマジャクシのイカダだらけ…
当時、私はやっと先生にめぐりあい、
ゼロから楽器と出会い直したばかり。
「きらきら星」の出だしもおぼつかないほどでした。

ふと、まずこの一番難しい4小節、100回練習してみよう。
なんとなくそう思いました。
100回もやっていないうちは「ダメだこりゃ」という資格すらない。
100回から先のことは100回やってから考えればいいや、と。

romanceアイザック・スターンによるドヴォルザーク「ロマンス11番」はここをクリック

 

交通量調査で見かけるあのカウンターを使って
1回、2回…と続けるうちに予想外の思いを味わいました。
30回頃は「なんだ、まだこんなもんか、先は長いなあ」
45回頃から「ん、先生がおっしゃっていたのは、こういうこと…」
ひとつとして同じ回はないのです。
同じチャレンジでも、発見が違う。
80回が近づくころ、焦りとさみしさと愛おしさがあふれてきました。
あと23回しかない、あと22回しかない…

95,96回目あたりは、「もうこれで最後」という思いがいっぱい。

100回目を弾き終えたとき、確かに楽譜をみなくても
指が動くようになっていました。
けれど、心の中にあったのはそのことではありませんでした。
一度生まれて、また彼岸に戻ったような感覚がありました。

101回目、110,120回を弾いても別にかまわなかったのですが
それは違うような、ゾンビのような気がして、
100回目で楽器をしまいました。

100は人間の寿命にちかい数なのかもしれません。
でも別にこれが300回でも1000回でもよいのだと思います。
ただ、はじめにひとつの全体として自分に約束していることが
鍵であるような気がします。

そして1回ごとに新たに向き合うこと。
次の1回はさっきの1回のコピーではありえないのです。

量が質に転化する、とよく言うけれど、やみくもに
あらぬことを考えつつ繰り返すだけではだめでしょう。
二度とない1回を積み重ねることで質自体が少しずつ
変化しているのでしょう。やがてまとまった変化として
感じられるのも当たり前のことかもしれません。

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今はヴェルディの「スターバト・マーテル」で
ソプラノの最後の音、上のシが楽に出るのを
夢見て…ほんとに暇ですみません。

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からだを響かせて語る、ってつまり骨のこと

去る3月16日、あの「外郎売の口上」を題材に、トマティス式発声の講座を開催いたしました。東京、千葉、神奈川は湘南方面からそれはそれは非凡な皆様がお集まり下さいました。ストーリーテリング、伝統芸能、ヴァイオリン、歌に整体、生物学とお得意分野も個性的。縁あって出会ったとしか思えません。まるで惑星のようでした。

今では「外郎売の口上」もアナウンサーの滑舌練習素材として知られていますが…口先の滑舌だけではもったいない。本来の滑舌は全身という植物をととのえたあとに花がおのずと咲くようなもの。舌がまわるだけではなく、全身がリラックス、呼吸は深くなり、語り手にも聴き手にも心地よいひびきを伴うはずです。

実は、人間の背骨は純正律のピアノのようにさまざまな音に共鳴するといわれます。しかも、骨のすべてがギリシャ悲劇のコロスのように静かに響き続けると、気持ち良い振動が生まれます。

耳と聲のしくみの素晴らしさを思いつつ、骨を響かせると、あら不思議、外郎売りさんのセールストークも、早口のところも、聴いているほうはゆったりしていられるのです。

今回は当然のことながらさわりしかできませんでした。ラジオ体操のように生活の一部として自然に繰り返す仕組みに育てたいと思いめぐらしています。川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯とご当地の地名も目白押しですからね。image

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