違和感①「英語が話せることより、語るべき内容をもつことが大事」への違和感

「英語が話せることより、語るべき内容をもつことが大事」って聞くたびに「感じ悪~」と思っていました。

語るべきことは、持とうとして持てるものではないと思います。そもそも持たなきゃなんて思うことはないのです。持とうとしなくてもすでに持っているのですから。

私は、すべての人は生きているだけで語るべき内容をそなえていると思っています。今これを読んでくれているあなたもそうです。

あなたがはじめて留守番をしたときのこと(さびしくて泣いた?喜んでいたずらした?)、初めて幼稚園に行った日のこと(泣いてお母さんを困らせた?あっさり教室に入った?)、はじめて飼ったペット(かめ?ねこ?いぬ?めだか?)、いちばん悲しかった日、いちばん嬉しかった日、私は何も知りません。それだけで私には耳をすませる尊さがあります。

平凡な人生なんてない。自分の人生を平凡と思うのはご自由だけど、たぶんそんなふうに思うのはご自分だけ。

私は法事や地元の合唱が楽しくて仕方ありません。一見フツーのおじさんおばさんに見えるひとたちがとんでもなく面白い話をしてくれるから。地上のあちこちで私たちはそれぞれに小宇宙旅行をしているんだ、と思うほど。

むしろ、「語るべきこと」を持つために何かの一人者になってやろうとするのはおやめなさいな。ノンジャパ受けをねらってお稽古事などはじめるのもおやめなさいな。そんな魂胆では亜流、目も当てられない空港のおみやげ浴衣みたいになるのが関の山。

それにしても、どうして英語は「話す」「語る」になってしまうのだろう。いくらおしゃべりしてもひとが耳をすませなかったら、商店街のエンドレステープ放送と一緒。フランス語やドイツ語の世界と比べておしゃべりバカが多い。自戒をこめて。

相手が耳をすませてくれるひとは、まず自分が耳を澄ませている。

だから何を語ろうかなんて思いめぐらすのはおやめなさいな。耳と心をからっぽにしてひたすら耳をすませれば、語るべきことはそのとき、その場で与えられます。語らなくてもいい。泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑えばよいではないですか。

ただ、泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑うには頭までからっぽではいけません。

言語の構造感覚と言語の文化的背景を知っておくこと。これは最低限の礼儀です。あなたのアタマはこれらを容易に受け入れるようにできています。人間のアタマと言語は相似していますから、入れ子のようにおさまります。

構造感覚を身につけるならロゼッタストーンがおすすめ。
文化的背景を学ぶなら…これは今はナイショにしておきます。さてなんでしょね。

「ブロークンでもいい」「会話に文法なんていらない」なんて言われたらご用心、「グダグダ英語詐欺」です。あなたは上等なマウンテンバイク。箱根も一気に駆け上がれるのに、詐欺師はタイヤの空気を抜いて住宅地の大したことない坂を上らせ、声援ばかり張り切りますからね。

 

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