12歳の私を外国語に駆り立てたのは…(12月13日)

大変お久しぶりです。
秋以降、イギリスの語り・歌・ハープの名手である友人たちを招いての「イギリス・福島、ふるさとの歌とことばの響きあい」にかかりきりになっておりました。この秋のこころみは、これまでの取り組みとおのずと軸がとおり、遠からずひとつにまとまる直感があります。

 

その原点はやはり10代のころにあるのです。…12歳の時、心底驚いたことがありました。

 

横浜のある古い女学校の1年生になりたてのころでした。はじめての英会話の時間、パステルカラーのワンピースを着た50代半ばと思われる女性宣教師の先生が教室に入って来られると、もうドキドキ。先生は、これから英語を学ぼうとしている私たちににっこり微笑みかけました。私たちの耳は本場アメリカやらの英語を期待していたのですが…聞こえてきたのはそれはそれは美しい日本語でした。mrsnorden

「これから半年、みなさんの英語を担当する~~です。私はみなさんが生まれるずっとずっと前に氷川丸という船で日本に来たのですよ。日本語も一生懸命勉強しました。これからみなさんとは英語でお話ししますが、それはみなさんの英語のためを思ってのことです。日本語を話さなくてもよいなどと思っているわけではありません。日本語はとても美しいことばですね。So my name is…」

 

仰天しました。

 

こんなふうに外国語である日本語を美しく、丁寧に話せるひとがいるとは!!

先生の日本語はいわゆるネイティブ日本人のものではありませんでした。けれど、ネイティブ日本人だからこそありがちなぞんざいさはかけらもなく、大人になって自分で意識的に学んだからこその丁寧さがみちあふれていました。ひとことずつが大切にされていました。

私たちが毎日あたりまえのように使っている日本語を、こんなに大事に話してくださって、ありがとうございます…そんな気持ちになりました。

そして、私も先生のように、外国の言葉を話してみたい、私がこんなに嬉しいように、外国の人を喜びでびっくりさせてみたい、という憧れが生まれたのです。

 

去る4月、もう傘寿をすぎたとは思えない先生と日本で再びお目にかかる機会がありました。久しぶりに耳にするお声も日本語も美しいままでした。

 

「グローバル人材」育成の一環として中学の英語の授業は英語で、という試みを文科省が唱えているようで。

 

さて、どうでしょうね。

 

10代の魂たちが憧れをおのずと掻き立てられるような大人と出会えるよう願うばかりです。

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子どもに見せたい、政治家のスピーチ!イギリス・キャメロン首相(8月30日)

とんでもない混迷を深めるシリア。米欧が爆撃を検討するなか、イギリスでは下院が議案を通しませんでした。

The TIMES紙などは与党が恥をかいたという見方ですが、こういうときこそ器が出るものです。

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負けを認めるキャメロン首相の張りのある声、堂々とした話しぶり、

ことばの簡潔さ、力強さは印象的です。(ちょっと悔しそうですけどね)

時折メモに目は落とすものの、話すときはしっかり顔を上げて、

声と視線がばらけることはありません。

議場の最後列にいる議員たちのところまで空間を感じているのでしょう。

 

 

 

 

“I strongly believe in the need for a tough response to the use of chemical weapons

but I also believe in respecting the will of this House of Commons.

It is clear to me that the British Parliament, reflecting the views of the British people,

does not want to see British military action.

I get that and the government will act accordingly.”

 

「私は強く信じています。化学兵器を使用する者には断固たる対応が必要だと。

しかし、下院の意志を尊ぶべしとも信じています。

もうこれで私にははっきりしました。

英国のひとびとの観方を反映する英国政府は、英国軍の軍事行動を望まないと。

承知しました。政府もそれにしたがって行動します。」

 

英国下院のようすを伝えるBBCのビデオはこちらをクリック。

 

おお、快哉、快哉。さっそくお手本とさせていただきます。ほら、このとおり。

 

I strongly believe in the need for a decisive action to

secure  energy to support our economy

but I also believe in respecting the will of this House of Commons.

It is clear to me that the Japanese Diet,

reflecting the views of the Japanese people,

does not want to see any more nuclear facilities restarted.

I get that and the government will act accordingly.”

 

どうです、いいでしょ?

 

さて、日本の政治家のみなさまにも気をつけていただきたいこと。

①メモに視線を下げたまましゃべり続けない。

(ほんとはメモなんかないほうがよい。)

 

②議場のすみずみに想像の耳を置いて、そこに座っているひとのつもりで聴く。

(物理的な耳の位置ままで聞くと、ただのひとりごと)

 

③自分の骨の響きを聴く。そのためにも、自分にとってtrueであることを語る。

(全身の骨をひびかせてウソをつくのは辛いものです)

 

おかげさまで好評の「耳は不思議、声は宝」セミナー、10月も行います。

 

 

 

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私の趣味ではないアファメーション (8月11日)

「今日も一日、私はポジティブな気持ちで幸せに過ごします」
といわゆるアファメーションを唱えるようにすすめられた、と
友人が怪訝そうな顔で言いました。

それを聞いて、私はもっと怪訝そうな顔をしたことでしょう。
ポジティブって、どんな次元の、なんのことでしょう?
ネガティブってそんなにいけないことでしょうか?

人のからだが生きていることは
「リズムをもって動いていること」に見てとれます。

そのリズムがあからさまでなくても、内的、静的な動きであっても
生きているものにはリズムと動きが宿っています。

心も似ています。

さまざまな喜怒哀楽のあいだを、foucault_pendulum_630px
振り子のように行ったり来たりして
知らないうちに螺旋のような成長の道を
あゆんでいるのではないでしょうか。

だから、怒りも悲しみも、経験としては
喜びや楽しみと等しく尊いと思うのです。

問題は、一か所に滞る、スタックすること。
浅い、というか低い喜びにスタックしているのは
悲しみに沈み続けるのと同じくらい、心配な状況。

さまざまな感情を季節のように味わうことから
他者の気持ちに寄り添いたい、という想いも
生まれるように思うのです。

20090731_1046705   「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
—- ローマの信徒への手紙 12章14-15節—-

自分がポジティブかネガティブか、なんて
どうでもいいのです。

そんなこと気にしていること自体がすでに不自由。
自由に、他者と共にあるという至福を想います。

 

 

 

 

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多様性だけでは意味がない (7月24日)

細野さんの立場、菅さん、鳩山さんの処遇をめぐって民主党ではいろいろな話し合いがあったようです。

民主党は多様な意見を持つ人々を集めているのに、これでは…と選挙前から気になっていたことがありました。。

 

それは個々の、「マイノリティの自覚」不足です。

 

それぞれが、「おいらが一番よくわかっている、いつかみんなに言うこと聞かせてやる」という幼稚でナイーブなマジョリティ感覚に酔いしれていた。

 

マイノリティの自覚という洗礼を通ってこそ、多様性のある場から想像力と学びが育つのだと思います。

 

ICUという大学はなかなか強烈な経験をさせてくれました。

ただ多様なだけでなく、個々にマイノリティ自覚の洗礼を通過させられていたのです。

そのことに気付いたのはしばらくたってのことですが。

 

日本育ちの学生は、日本の学校では英語がとてもよくできたのに、

英語をしゃべれない内気な子と思われてる…

一方、自分より英語はできなかった高校時代の同級生は日本の大学で楽しそうにやっている。

帰国子女の学生だって大変。

アメリカの学校ではトップだったのに、池袋ってどんなbag?

役人と官僚はどう違うの?ときいて笑われてしまう。

 

どちらも、人に相談したり、文句を言ったりしているだけではなんにもなりません。

今目の前にいる相手に通じることばを自分が獲得する以外、どうにもならないのです。

自分から、古い物差しを脇へ置いて、新しい物差しをあてて、

自分から変わらなくてはどうにもならないのです。

 

人間社会は多様性だけでは意味がない。

ただ、いろんなのがいるだけでバランスが取れる、新しいものが生まれるわけではない。

多様性、マイノリティ自覚、想像力 セットなのです。

 

 

 

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カゼインが、グルテンが悪いのか、納豆ならなんでもよいのか

いわゆる発達障害が大人たちの不注意による中枢神経汚染であるケースが多いことがわかってきました。
ほんとうに、子どもたちは鏡です。

さて、私が気になるのは物質名でよい、わるい、を唱え、それになびく傾向です。数年前もテレビで納豆さわぎがあったではありませんか。

むしろ「いかに」を大事にしたいと思うのです。

たとえば乳製品の場合、日本では全頭除角といって、角を切り落とすことが奨励されます。しかし、牛の角はケラチンという絶縁体でできていて、牛の神経伝達を漏らさない、という働きがあるといいます。角のついている牝牛のミルクはタンパク質の分子の大きさが安定していて、牛乳アレルギーの方もおいしく飲める、という報告もあります。また、牛乳とチーズではまったく意味が違うのです。

グルテンについても、周辺をとりまく他のアミノ酸や精製方法によってクオリティは千差万別でしょう。

ヨーロッパでは東南アジアのアブラヤシを環境破壊として退ける運動が高まっています。
確かに現地では政府と大企業が結託して一時的な利潤を追求しています。
けれど、東南アジアに根差し、天地人の理に適った加工を目指す人もいるのです。
こういう志ある生産者を善意の消費者が幼い選択で圧迫することがないように、と望みます。

 

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ボランティアは無賃奉仕ではない

ボランティアは無賃奉仕のような印象がありますが…違います。

volunt- は意志、つまりindex1自らの意志で行う、という意味です。

 

聖書にはこんなふうに。

”In terra pax hominibus bonae VOLUNTATIS”

地には平和、善き人にあれ

 

 

みずからの意志だからこそ、志願兵、という意味にもなるのです。

 

仕事としてお金を頂くほどでないのでボランティアで…というのは、言い間違い。

「アマチュアだから無料で」という意味は「ボランティア」にはかけらもありません。

 

自分の意志で行う、という意味ならば、お給料が出ている仕事こそボランティアでなくては。

意志などないのに、時間を切り売りしているとしたら、ボランティアでも仕事でもありません。

暇つぶしの時間泥棒です。職種の問題ではありません。取りくみ方の違いです。

 

「これは世のため人のためになるからやりたい」という自らの意志と「ぜひやってほしい」という世の意志が近づくと、

仕事としてやりやすいのでしょう。これは普通のお仕事、報酬アリのボランティアとでも呼びましょうか。

 

ときには、時期尚早を承知で呼びかけてみたい、などということもあります。

もちろん、相手がすでの応じる感性を持っていると直感し、信じてのことです。

そういうときは投資としての、自腹、手弁当ボランティアとなります。

でも、いつまでも手弁当なのは何か課題があるのです。

 

ときどき交通費さえ受け取るのを拒むボランティアさんを見かけます。

なにも生計に入れなくてもよいのです。次の取り組みに活かせばよいのでは、と思います。

あら、そんなに受け取るのが苦しいなら、えへへへへ、ぜひ、こちらの口座に…

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掟は破れるけれど

北アイルランドでのG8。
安倍首相はアベノミクスについて各国に熱心に説明したそうで。

アベノミクス、と聞けば多くの日本人はアベ+エコノミクス、安倍さんの経済政策、と思うことでしょう。

新聞にも「安倍政権の経済政策、いわゆるアベノミクス」とありました。

私は、どういうわけか「コ」が抜けたのが気になるのです。
アベノミクスでは長すぎるのでしょうが、このごろの政権の様子を見ていると偶然とは思えず…

Abenomicsは、abe + nomicsのふたつの部分に分かれます。

abeは言わずもがな、安倍さん。 nomicsはギリシャ語でノモス、掟、法を指します。

あら、経済はどこへ行ったのでしょう?

そもそも経済、economyeco+nomy

ecoはギリシャ語のオイコス「家」、nomyはこれまたノモス「法」に由来します。
家計簿に向かってそろばんをはじいている昭和のお母さんみたいですが、家の意味にもいろいろあります。

人類という大きな家族のすみか、つまり世界、という大きな家を思い浮かべてもよいでしょう。

ところで、このecoはエコのエコです。「それってエコだね。」は「それって家だね。」という意味。ギリシャ人には「?」です。

このエコはecology=eco+logyの略。
オイコス「家」+ロゴス「理」から成り立っています。

さて、ノモスロゴスはどう違うのでしょう。

ノモスは人が定めた、人が変えられる統治の仕組み。
autonomy=自治にもノモスが入っています。

ロゴスは人と関係なく宇宙、天にそなわる、人には変えられない仕組み。
biology, geology, philologyなど天地の理を探求する学問名によく登場しますね。

hades

エコノミクスをノモスに敷衍し、ロゴスまで変えようとする。

そんなことはできない、してはならないと思い知ったばかりではありませんか。

そんな人間には冥界の門が大きく開くことでしょう。

そこで待っている冥府の長はその名をギリシャではハデース、

ローマではプルートーといいます。

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クレジットカードが息をお引きとりになりました

おやおや、おかげさまで昨日のinspireが話題になっているようですので、こちらもご紹介。

“expire”

in=中への代わりにex=外へ、という意味の接頭語がついていますから、これは「息をはきだす」を表します。

息をはきだすと言っても、また吸って、また吐くなら普通の呼吸。
そうではなくて…アダムを活かしたかみさまの生気が出ていく…ということは「息をひきとる」「こと切れる」という意味です。

それをモノにあてはめれば消費期限、使用期限ということになります。(賞味期限はbest before date)

クレジットカードにもあるでしょう?expiry dateが。
カードが息をおひきとりになる時のことです。

expirecard

 

 

 

 

 

 

 

 

ことばをしぐさで捉えると、日常のモノが生きもののように見えることがあります。

辞書で一番初めに書いてある語義だけ1対1で覚えていてはもったいない。
inspire=鼓舞する、奮い立たせる expire=期限が切れる
これではちっとも応用が利きません。
spireが共通しているのに語義に共通点が感じられない…

変だな…何か共通点があるはず…と思ったらしめたもの。辞書の背後の世界にようこそ、です。

おおもとの身振りを知ること。これ以上シンプルで、自由なことばとの出会いがあるでしょうか。

これを楽しんでいただけるツールを作成中。お楽しみに。

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INSPIREは「鼓舞する」でいいか???

私が通訳に必要と考えているスキルには3つあります。
①話者のイメージの順番とイメージどうしの関連をそのまま保つ。
②話者の語りの曲調を保つ(よっぽど憂鬱とか、カリカリがみがみウルサイとかでなければ。でも真似するとかえって面白いかも)

そして
③もとの英単語に含まれるしぐさを想う

たとえば、inspire

in 「中に」と
spire 「呼吸する」
の組み合わせです。

これはかみさまが土くれから作ったアダムに息を吹き込んだ光景に由来するもの。

ところが、英和辞典を引けば「鼓舞する」とあります。

これではちんどん屋さんです。
神様は踊ったり太鼓たたいたりはしていません。


ことばは英和一対一対応で処理してはなりません。
それは人間のアタマが2次元の辞書に成り果てたのと一緒。

2次元の辞書から想像をふくらませて、3次元のしぐさをありありと味わいましょう。

英和一対一対応の通訳が英語のセンターラインを右に左にぶれながら訳したら聴いているほうは船酔いするでしょうが。

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May 10, 2013 INPPのことばでシュタイナー教育を

私がINPP、神経生理心理学研究所を英国、チェスターにを訪ねたのは2011年、震災の直前でした。

まだ自分のミッションが見えていなかった学部時代の大学留学は、幸せだけれどどこか恥ずかしさを残していました。それから21年(その間何度も行ったり来たりしているのだけど)、ふたたび学び手としてイギリス、チェスターに赴いたのです。

それはアカデミックか?オープンでフェアか?

2004年からシュタイナー教育の学習支援、エクストラ・レッスン、ほかのさまざまなメソッドの通訳、翻訳にたずさわってきました。でも、どこか、「?」が残ったのです。いろいろな背景をさぐり、水源をさぐるうちにINPPにたどり着きました。

あまりに地味で謙虚な語り口のINPPは原始反射・姿勢反射と学習レディネスの研究で、大学やお医者さんとオープンでアカデミックな関係を築いています。すでに私たちがおばあちゃんたちから伝えられている暮らしの中の遊び、お手伝いを大切さ、食生活で気をつけられることを紹介しています。セラピーの商品化ありき、ではありません。手段の目的化には厳しいです。

ビデオ:学びという贈りもの The Gift of Learning

シュタイナー教育のよさも、所長のサリーさんがこんなふうに、なんとも地味に語ってくれています。4分50秒くらいからご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=0MDSYxFpqxs

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